タンポからキリタンポへ

 若い頃、ある早春、友人達とスキーツアーを試みたことがあります。 昼どきになりましたので、どこで食べようかと山頂から眺めましたところ、谷底の沢のほとりに小さな鳥羽小屋があり、かすかに青い煙が出ているのが見えました。

 「あすこを借りるべし」と滑り降りて行って見ますと、丁度、当番のオヤジさんが後片付けをして山へ登るところで したが、こころよく貸してくれた他に「実は一昨夜の夜マタギどさ宿貸したば“ナガシジャキ:炊事場”さ来る狸コ五匹ばかり猟銃撃って獲り一匹宿料代わり だって置いて行った。肉コぁ皆食ってしまって、ツユっこばりだども良かったら・…」というので、ほんとに、鏡汁になってしまった狸汁を「なんだかカチカチ 山みたいだな」と言い合いながら御馳走になった記憶があります。

[調味料]

 山で働く人々が蛋白源野足しにと獲ったウサギや山鳥の貝焼に、たまたま「山子のタンポ」が入って食べられた。そ れがキリタンポの濫傷(らんしょう:起源)だと私は想像しているのですが、山から里に下りてきたそのキリタンポが郷土料理の代表として普及するのには、調 味料が大きなウエートを占めていたように思います。

 前に述べましたように、山に入って働く人々の調味料は、運搬が楽な味噌とか塩だけでした。(藩制時代の醤油は「下り醤油」と言ってせいぜい盛岡辺りまでしか来てなくて、まったくの貴重品で、山子の食品ではありませんでしたし、味噌のタマリも運搬に難がありました。

 どんな味なのかと思って味噌仕立ての鶏貝焼にタンポを入れて食べてみました。食えることは食えるのですが、どうも味がいまいちピンときません。

 やはり、鶏貝焼の調味には醤油が一番似合います。

 初代の浅利佐助翁が県北で最初に醤油の醸造を始められたのは明治5年でしたが、大変な企業努力を傾注されて、明治40年には二千石という県内一の醸造高をみた訳で、この醤油の普及と歩みを同じくしてキリタンポも町々に拡まっていったものと考えます。

[鶏肉]

 キリタンポは「比内鶏」とよく言われますが、事実放し飼いの皮内鶏の味は抜群です。

 しかし、それ以前に、黒目鶏があったと安村二郎(鹿角の郷土史研究家)さんが指摘されています。

 目黒鶏というのは、黒っぽい毛色で、黒い瞳がポコっと飛び出したような小柄な鶏で、裏庭や采畑を駆けまわり犬や 猫に追われると、長い距離を飛んで、生垣や庭木の枝に飛び上がり、そのまま樹上で夜を過ごすこともあったという、なかなか敏捷な鶏で大湯地方の人々は「タ ンポは目黒ドリに限る」と言ったものだと申します。

 また、放し飼いで運動量が多くて、雑食であれば、良質の筋肉がつき、脂もよくのつて美味しい鶏肉になるのは当然のことで、以前、白レク(白色レグホン)の廃鶏を田んぼで半年放し飼いにしたら、とてもうまかったという新聞記事を読んだことがあります。

 良質な鶏肉が手に入らなくても、最近は優秀な「トリガラスープ」も市販されておりますし、それが無くてもカツオブシとコンブのダシを濃目にとり、それをベースにしてトリガラを煮ますと、市販の普通の鶏肉を使っても、結構、美味しく貝焼になります。

[料亭料理]

 キリタンポは料亭の料理に取り入れられてから目覚しい発展を遂げ、料亭料理はキリタンポの普及に大きな力を発揮しました。

花輪(市内)の一二三(ひふみ)軒をはじめとする料亭群

大館の北秋倶楽部――キリタンポと大菊のコンビネーションは、素晴らしいの一語 に尽きます。
 庭園や屋内に所狭しと置かれた無数の大輪菊の美しさ。馥郁(ふくいく:かおりの高いさま)たる香り、そしてその中での菊見酒・肴のキリタンポ鍋の美味しさ。

 鶏貝焼に入れられた大菊の花びらの旨さ、その絶妙の取り合わせに、只只、陶然として仙境を遊ぶの思い…・。

 これを演出されたという初代の御主人の構想には、敬服せざるを得ません。

 東京・銀座の秋田屋(故大坂志郎氏母堂の経営)――昭和十年代の中ごろでしたが亡父が所用で上京した際、 客を招待して秋田屋で、「キリタンポ」を御馳走してきたというので、「美味だったか?」と聞いたらば、「まぁな」という返事。察するにあまり美味しくな かったのではと思いましたが、しかし、在京の県人や中央政界や財界人には大変人気があったそうでキリタンポの名声を大いに高めてくれました。

 秋田市・川反の「濱の家」――花輪の一二三軒の佐藤久助さんからキリタンポの調理法を伝授されたのは昭和 初年ごろのことと伺いましたが、以来、習得された技法をかたくなに守り通され、自家製の手作り、手焼きのタンポを使っての、しきたり通りのキリタンポ鍋の 格調の高さは、さすがキリタンポ料理の代表店と、心から敬意を表する次第です。また、宅配ブームの始まる以前から航空便を使って全国にシェアを拡大された 感覚の鋭さには脱帽せざるを得ません。

(郷土史研究家 関 久 氏の論文)